飯田 敦子さん(ふちゅうのグリーフサポート・雨宿り)
市民活動団体“雨宿り”が開催する、自死遺族が互いに気持ちを話す「わかちあいの会」。メンバーの飯田さんは、お子さん二人を自死で失った後、電話相談ボランティアなどを経て団体を立ち上げました。現在は“ふちゅうのグリーフサポート”の一員として、子どもを自死で亡くした遺族のサポート活動を続けています。
「優しい人に、なり続ける」
飯田敦子さん(ふちゅうのグリーフサポート・雨宿り)
市民活動団体“雨宿り”が開催する、自死遺族が互いに気持ちを話す「わかちあいの会」。メンバーの飯田さんは、お子さん二人を自死で失った後、電話相談ボランティアなどを経て団体を立ち上げました。現在は“ふちゅうのグリーフサポート”の一員として、子どもを自死で亡くした遺族のサポート活動を続けています。
「良い子」を求めないで
小学校の先生や、中学校のスクールカウンセラーなどの経験をお持ちの飯田さん。昔からカウンセリングをやりたいと思っていらっしゃったのでしょうか?
「そうですね、私は子どもの頃から内向的で気持ちを人に打ち明けられなくて、特に高校生の時には『私の気持ちをわかってくれる人なんていない』と強く感じていました。たぶんこの頃から“こころ”というものに関心を持つようになったのだと思います。こころの声を聴けるようになろうと思い、教育学や心理学の勉強をするようになりました。
今振り返るとその頃の私は、自分は我慢して相手の気持ちを優先することが多く、次第にこころのエネルギーが失われていっている状態でした。その後、数々の失敗を経験してようやく気付いたのは『失敗しても大丈夫、自分はいつかできるんだ!』という自己効力感や、ありのままの自分を大切な存在として受け入れる自己肯定感を持つことが、誰にとっても大事だということです」
人に迷惑をかけない、人に合わせてみんなと仲良くできる子が“良い子”の定義とされることも多いですよね。
「そうですね、だからそんな『良い子』になることを、大人は子どもに求めないでほしいです。私はそれを求めてしまったので……自分の子どもにね。
長男は今でいう広汎性発達障害で、好きなことには集中して取り組めるけれど人の話が耳に入らない、いわゆる『空気が読めない子』でした。人とのかかわりが苦手なことを、私はとても心配していました。
いつも怒っていたんですよね、私。みんなができることがどうしてできないの!何度言ったらわかるの!親がいなくなったあとどうするつもり!……長男は『どうせ自分なんて』とつぶやいていました。
長男は進学した大学を中退してひきこもるようになりました。それから20年、本人も家族も苦しい日々でした。家族だけではどうすることもできず、支援を求めて方々を訪ねましたが、本人を連れてこなければ何もできないと言われるばかりでした。
私は彼の自尊感情を一生懸命に削っていたんです、将来を心配するあまり。それよりも今日できることを、ゆとりを持って積み重ねていく、その延長線上に自分らしい生き方を見つけられるかもしれないのに。
大事なのは自立しなさいとか人に迷惑をかけちゃいけないってことじゃなくて、失敗したりうまくいかなかったり、そんな時は人を頼っていいんだよっていうこと。それによって人と人とはつながっていくのだし、そういう弱さをお互いに認めあい支えあう社会でありたいですよね」
「長女は小さい頃から物作りが好きな、優しい子どもでした。障害のあるきょうだいがいて、我慢をさせたり注意を向けてやれなかったりすることも多く、怒号が飛び交う中で成長することはメンタルに悪い影響を与えていたと思います。30代でうつを発症してしまいました。職場でのパワハラが直接的な要因ではありますが、もともとの原因は家庭環境だったのかもしれないと思うと、謝っても謝りきれない思いでいます。それでもいつも『お母さん、お母さん』と慕ってくれた長女を思うと不憫でなりません。
娘が亡くなって初めて、うつの怖さや苦しみを知りました。近くにいながら気づけなかった愚かな自分に臍を噛む思いでいます。今だったら、今だったら、そんなに頑張らなくてもいいよ、家に帰っておいで、人生何とかなるさって、言ってあげられたかもしれないのに……と思うんです」
「心の花が開く、その日まで」
「子どもを亡くして3年が経った頃、自死遺族支援をしている団体の電話相談のボランティアをしたことが支援活動の始まりです。ボランティア仲間も、電話相談の相手も自死遺族という環境だったので、『私も自死遺族なのよ』ということが素直に口に出せました。それがとても救いでしたね。一般の人には言えないことだったので。
そこで知り合った方々と一緒に“雨宿り”という市民団体を立ち上げて、自死遺族の気持ちをわかちあう会を開催するようになりました」
わかちあいの会で、気をつけていらっしゃることはありますか?
「参加してくださった方が安心して話せるようにと心掛けています。自由に話すことでこころが開放されていく、悔しい、むなしい、怒りたい……どんな気持ちも大切なものなので、何回でも気が済むまで話してくださいねと。けれど話すことで気持ちが重くなったり、気分が悪くなったりする場合もあります。話すことに慣れていなかったり、抵抗を感じたりする方もいらっしゃるので、前もって話さない自由があること、聴くだけの参加もできることをお伝えしています。
そしてどなたかが話したことに対しては、そんなことがあったのね、そんなふうに思ったのね……とただ聴くだけで、余計なアドバイスはしません。もともと持っている、その人の内面的な力が出てくるのを待つということですね。
人間の力ではどうすることもできない苦しみや悲しみを経験したあとに、人は優しくなって、心に大きな花を咲かせることができるのではないでしょうか。ハスの花が咲くのを早く咲け早く咲けって引っぱったって咲きません、いつかその人の中で時期がきたら美しく花開く。
大きな痛みのあとだからこそ、それまでの価値観を見直して、自分の殻を破って、新しい自分を生み出すことができる。だからそれを信じて待っていればいいのです。そういう信頼感、人間に対する肯定感を、おおぜいの自死遺族の方々に教えていただきました」
飯田さんもそういう方ですものね。とても優しい。
「いえいえ優しい人になりたいと思いますが、なかなかね。一生、完成しないのかもしれませんね。状況によって、こころはコロコロ変わっていきますし。最近、穏やかな気持ちでいられるなと思っていたら、イヤなことを言われて怒ってしまったり(笑)。
生きることは苦しいですよね。自死遺族の中には、もっともっと苦しまなければと、自分に鞭打つような厳しい考えをされている方もいます。私の中にも同じ気持ちがありました。しかし今はできるだけ、苦しみを罰として受け入れるのではなく、少しのあいだ横に置いて考えるようにしています。この苦しみの意味は何か?何を自分に教えようとしているのか?この苦しみはどう変わっていくのだろうか?
苦しみも悲しみも消えることはないけれど、それらと共に生きながら、目指す自分の在り方に向かって、ゆっくりと歩いていくことはできます。優しい人になり続ける、こう在りたいと思い続ける、その道のりが大切だと思います」
雨宿りをした、そのあとに
「わかちあいの会には、かなり遠くからいらっしゃる方も多いです。自分の住んでいるまちでは参加しづらい、自死遺族だということを知られたくないからと」
世間からなんらかの差別的なことを言われて、気にするようになってしまうのかもしれませんね。
「そうですね、でも自死やその遺族に対する差別は、誰にでもある感情なのかもしれないですよね。私自身の中にもあったと思います。しかしそれが遺族の苦しみを耐え難いものにしてしまうことを思うと、やはりこのままではいけないと思います。
差別するつもりではなく、まわりの人が何気なく言った言葉にも心の傷が開いてしまうことがあります。親より先に逝くなんて親不孝、もう一人子どもがいるからいいよね、早く元気になってね……。ましてや、あの家は祟られているとか、遺伝の問題だとか、噂話をされることを恐れて自死遺族であることを一生隠し続ける人もいます。こういう状況を変えていくために、広く私たち自死遺族の活動を知ってもらうことも大事ではないかと考えています。
最初は自分の悲しみでいっぱいだった自死遺族の人たちも、何年か経つと客観的な見方ができるようになり、さらに生きること・死ぬことを深く考えたいと思うようになります。“雨宿り”参加者の中から、そんな新しい活動を行う“星めぐりのうた”という団体も立ち上がりました。
自死遺族に限らず、さまざまなグリーフに取り組む“ふちゅうのグリーフサポート”の活動も続けていくつもりです。自死で亡くしただけではなくて、事故や病気など他の理由で大切な人を亡くしたその痛みも、その人にとっては100パーセントの痛みですからね。いろいろな人たちと対話の機会を設けていきたいです。これからも対象の広いグリーフケアの活動を続けていきたいと思います」
(2023年11月3日 インタビュー、文/神名川)