<番外編>高橋 義博(府中市市民活動センター プラッツ職員)
日本全国の中間支援施設とつながりを持ち、関西や四国のイベントにも顔を出す……。そんな高橋にも、「知り合いなんていらない、ひとりでいい」と思った時がありました。次の世代に手渡す社会を、今より少しでも良くするために、今自分がするべきこと。熱い想いでみんなをつなぐ、その原点とは何なのでしょうか?
「ずっと続く、社会のために」
高橋 義博(府中市市民活動センター プラッツ職員)
(撮影:田口裕太)
日本全国の中間支援施設とつながりを持ち、関西や四国のイベントにも顔を出す……。そんな高橋にも、「知り合いなんていらない、ひとりでいい」と思った時がありました。次の世代に手渡す社会を、今より少しでも良くするために、今自分がするべきこと。熱い想いでみんなをつなぐ、その原点とは何なのでしょうか?
社会を変えたい
「工業高校を卒業して工場に勤務し、その後20代になってからは派遣で12年間、OA機器メーカーで働きました。
リーマンショックや東日本大震災があって、社会情勢が大きく変動していた時期です。一緒に働く人たちも悩みや不安を抱えていることが多かったです。そこで僕が相談を受けたり、適切な人につないだりしていたんですが、ある時気がついたんですよね、『あ、こういう役割ってあるんだ』ってことに。それがきっかけで、産業カウンセラーの資格を取りました。
そうこうしている間に、2012年に僕自身が雇用契約を切られてしまうことになって。その時に先輩から、『相談対応が得意みたいだから、それを活かせる仕事を探してみたら?』と言われたんです。
当初はケースワーカーの仕事を探していたのですが、経験がないとなかなか雇用には結びつかないことがわかってきました。その時、社会福祉協議会で“市民活動コーディネーター”の名称だったかな、そういう募集しているのをたまたま見つけたんですよ。なじみのない言葉だったけど、なんだか詳しく聞いてみたい気持ちになって電話をしてみました。どういう仕事なのかを尋ねたら、『市民みずからが、自分のやりたいこと・やれることでまちづくりをしていく、その裾野を広げていくお仕事なんですよ』って教えてくれました。それを聞いて、やってみたいなって。
……世直しをしたいと思ってたんです。社会の底辺を見てきたので。派遣から契約社員になって、少しずつ自分の役割が上がっていった時期もあったけれど、景気が悪くなると下降して、結局は契約を切られてね。その時はもう子どもがいたし、この子たちが大きくなった時もこんな社会のままだと嫌だなって」
市民活動センターの仕事に就いて、どのように思っていますか?
「活動団体それぞれが、社会を良くしたいという思いから各々の活動をされています。それぞれの目標を達成していくことで、少しずつみんなが思い描く社会へと変わっていきます。どこか特定の団体ひとつが活躍すればいいわけじゃなくて、みんなの活動が活発にならないといけないですよね。僕らは皆さんをまんべんなく支援して、社会全体を良くしていこうっていう立ち位置です。
職探しをしていた時はそこまで理解していなかったですが、もしこの役割がわかっていたとしたら、迷わずこの仕事を選ぶだろうなって思いますね」
手話を通じたネットワーク
「勤めていたOA機器メーカーでは、障害者雇用で聴覚障害者が大勢働いていたんです。手話サークルが各事業所にあって、先輩に誘われてそのうちのひとつに参加するようになりました。聞こえない人が講師で、手話を教えるのがとても上手でね。僕もどんどん覚えることができて、聞こえない人たちのネットワークに入っていきました。
そこで知り合った人たちに相談を受けることも多かったです。不安定な社会情勢の中で、会社が最低限伝えなければならないことは伝わるんだけど、それ以外のことが伝わらないから不安になるんですよね。聞こえないと、人の話している間に入っていけないから、物事の背景がつかめないことも多いし。会社の中で孤立しがちなんです。
一例をあげると、会議に参加することができないんです。みんなが発言していることが聞こえないわけですから。要約筆記のようなことや、いろいろな機械を使って工夫をしてもタイムラグは出てしまう。自分の意見を手話で伝えたとしても、周りはわかりませんからね。それでは本人も、組織の一員になった気がしないし、周りの人たちも一員として意識できてないかもしれない。そうなると単なる作業員になってしまうんです、役職がついたとしても。
孤立する状況は他にも随所にあります。聴覚障害者の中で、それが一番顕著にあらわれるのが難聴者かもしれません。誰が難聴者なのかが互いにわかりづらいし、手話ができない人もたくさんいるし、仲間同士でつながる機会も持ちづらいので、悩みを打ち明ける場もありません。
聞こえない、聞こえづらい人たちの孤立を防ぐこと、それを僕のライフワークとして取り組もうと決めました。
また聞こえない人たちには、長い歴史をかけて積み重ねてきた文化があります。そのことを聞こえる人たちにも理解してもらいたい、それが僕の願いです。
……ある時、妻が阿波おどりにハマりまして。練馬区の『だいこん連』という阿波踊りの団体に所属することになりました。
『だいこん連」には、聞こえる人も聞こえない人も参加しています。阿波踊りを通じて聴覚障害に対する理解を深め、手話を社会に広めていくことを目的としています。妻だけでなく、今では僕も阿波踊りにすっかりハマってしまって、毎年夏には家族全員で徳島に行くまでになりました」
2017年鳴門市阿波おどりにて(徳島県)
徳島の聴覚障がい者(すだち連)との合同参加の様子。聞こえる人も聞こえない人も、一緒になって踊りを楽しみます。
「徳島阿波おどり前夜祭」(2017年撮影:高橋 義博)
満足できる大人に
奥様とは、勤務していた会社の手話サークルで知り合われたんですよね。お子さんは中学生と小学生? 子育てのことで、大変なことは何かありますか?
「実は妻も聞こえない人なんですが、子どもが手話をちゃんとできないんで、妻とのコミュニケーションがけっこう大変だなと思います。これはまあ、手話を公用語として家の中で使えてこなかった僕らの責任でもあるんですけど。お互いに言葉がちゃんと伝わらず、ちょっとケンカみたいな場面を見ると複雑な気持ちになります。うーん、なかなか難しいですね」
思春期ですもんね、ケンカしますよね。まあ私は、今でも母親とよくけんかしますが。親の前では万年思春期ですから(笑)。ただそこで、言葉でけんかできるのとは少し違うのかな。もう少し大きくなると、独自のコミュニケーションの取り方ができあがってくるのかもしれないですね。
「思春期だからこそ、ちゃんと関わっていきたいとも思っています。まあ後で振り返った時に、子育てについて多少の後悔はあってもね、あの時に戻らなきゃ!…ってほど悔やんでなければいいのかなと思ってますけど。手探りですよね」
高橋さんご自身の子どもの頃は?
「僕の育った家庭は、両親は幼い頃に離婚しているし、他人から見れば複雑な家庭環境でしたね。宗教のことでも苦労したんです。
もともと祖母が信仰していたんですが、小学校高学年の頃から僕ものめりこんで。そこで親しくなった人の家に、毎日行かなきゃいけなくて」
毎日?なんでまた?
「師弟関係みたいなイメージだったんでしょうね。で、何か買ってこいとか言われて、お金は絶対くれないし。気が向かなくて行かない日があると、次の日がすごいんです。都合のいい時しか来ないなお前、って殴られて。
20代になって、もう限界が来てね。お金も続かないし、逃げるしかないと思って逃げました。でも追いかけてこなかったです。お金のことがあるからかもしれません。ずいぶんお金を貸していたけど、僕がいなくなれば向こうは借金のことを考えなくてよくなるってことでしょうね。返すつもりなんてないでしょうし。
そのあとしばらくは、知り合いなんか誰もいらないって思っていました。でも性に合わないんですよ、そういう考え方。すぐに仲のいい人ができてね(笑)。やっぱり一人は嫌なんだっていうのがよくわかりました」
大変な環境で育ってこられて、今は立派な大人になって(笑)。ご自分の家庭を持たれて、子育てをされてますが、お子さんにはどんなふうに育ってほしいですか?
「この世の中、努力してもなかなか報われないこともあるじゃないですか」
そうですね。
「だから、子どもにはそういうのを乗り越えられる人になって欲しいです。強くあって欲しい。
結局、競争社会になってしまっているので、そこに無責任にほっぽり出せない。学ぶことを嫌いにならずに、学力をつけて欲しいです、僕はそうできなかったので。自分の後悔していることを子どもに託してしまうのは、親の良くない習性なのかもしれないですけど。
仕事も自分のやりたいことをちゃんとやれる、満足できる社会人になって欲しいです。人の心や会社の仕組みはなかなか変えられないから、やっぱり違うなと思ったら路線変更できるようにしないといけないとも思います。別に安直に辞めろと言うわけではなくて、やりたいことをつかんでいくために路線の変更が器用にできることも大切です」
お子さんにも、高橋さんと同じ、この仕事をして欲しいと思われますか?
「選んでくれるなら。
ただやっぱり生活するってことも考えると、推奨はできないですね。所帯持って稼ぎ頭で…とは、できる仕事ではないので。でもそれでも社会をつくっていくっていうことに重きをおくのであれば、選択する価値のある仕事だと伝えますね」
ずっと続く、社会のために
高橋さんも私も40代半ばですけど、前の世代から受け取った社会を、次の世代にどんなふうに渡すんだろう、私たちの世代は何を残せるんだろうと思うとね。
「だから公私ともに動いてるんですよ。子どもたちからの、富の前借りで僕らは生きてると思っているので。僕は子どもができてから特に、何も残せないんだなって気づきました。何かが破綻したら、家がある土地があるって言っても、それが負債にしかならないこともある。残せるものってそういうものじゃない。うまく循環する社会そのものを残すしかない。そのためにわずかでもアクションを起こして、ほんの少しでも良い方向へ社会を変えていかなきゃ。僕はそうあり続けたいですね」
(2020年4月4日/インタビュー、文:神名川)